ロングスリーパー経営者(後編)

前編はこちら↓

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それから2週間後、平日の19時。

いちばん好きなエッセイの文庫本を携えて、私は坂下に会った。

 

彼女に隠れてTinderで女を物色するクズだと分かっていたが、それでも私は、坂下が彼女と別れる可能性があるのかどうか、探りたかった。

 

「今日、彼女に何て言ってここにきたの?」

 

坂下が予約してくれた創作料理屋に入ると、私は真っ先に尋ねた。

 

「何も言ってない。毎日帰るの深夜だから、飲みに行って帰っても時間変わらないからさ」

 

「一緒に住んでるんだ?」

 

「うん。もう2年くらい」

 

ほとんど休みなく働き、それ以外は寝てばかりの坂下のライフスタイルでは、普通のデートなどままならない。

同棲は想定内だった。

 

「2年一緒に住んで、結婚の話は出ないの?」

 

「出てはいるよ。でも僕は、会社がもう少し大きくなってからと思っていて。あと2、3年はかかるかな」

 

それから私は、坂下の恋愛観や結婚観をこれでもかと深掘りした。

結果、どうやら別れるつもりはないらしいことを察した。

 

「海苔子さんはその後、Tinderで何かあった?」

 

おい聞くな。何もないわけないだろ。

 

「いや、特に。うまくいってたら今日ここに来てないし。坂下君は誰か会った?」

 

「一人だけ会ったよ。でもね、その子に会って思った。もう海苔子さんだけでいいやって」

 

「どういうこと?」

 

「前に海苔子さんに会った時、こんなに深い話ができる子がいるんだって驚きはしたんだけど、やっぱり特別だったんだなってあらためて思って」

 

私が欲望のままに論破したことを、坂下は「深い話ができる子」と好意的に受け取ったらしかった。

 

「あのさ、口説いてる?」

 

「いや、そのつもりはない。って言ったらそれはそれで失礼か。でも、今日来てくれて本当に嬉しかった」

 

坂下は終始そんな感じで、私を褒めながらも核心には触れない、微妙な距離の取り方をしてきた。

 

4時間ほど飲んで閉店時間が迫った頃、私は持ってきた文庫本を差し出した。

 

「私がいちばん好きなエッセイを持ってきた。貸すんじゃなくて、あげる」

 

本当にあげるつもりだった。

 

「ありがとう。絶対返すし、その前に感想を送るよ」

 

坂下はそう言って受け取り、会計を済ませてくれた。

 

彼を駅まで見送ろうと並んで歩く道中、坂下は私の手を握ろうとしてきた。

 

「おい、キショいぞ」

 

全力で拒絶すると、坂下はすぐに「ごめん」と手を離した。

 

「そういうつもりなら、別れてから出直してきて。確約はしないけど、検討はしてあげる」

 

坂下が彼女と別れる気がないことなど、分かっていた。

だから私はこう付け加えた。

 

「恋愛ごっこがしたいだけなら、他をあたって。坂下君は無駄にスペックが高いから、簡単に落とせると思うよ」

 

坂下は苦笑して言った。

 

「ごめん。下心が全くないと言えば嘘になるけど、でも、海苔子さんとはこうして何でも話せる関係でいたい。だからまた会ってほしい。本、読み終わったら連絡します」

 

自分の中で、ふっと温度が下がるのを感じた。

 

今の坂下と私の関係性ならば、私が上に立てる。

そう思った。

 

それから坂下と私は、恋人でも友達でも浮気相手でもない、形容し難い関係性が続いている。

「友達」と言い切れないのは、どこかで関係性が変化することを、薄く期待している自分を認めざるを得ないからだ。

 

叶うなら、別の形で出会いたかったと思う。

例えば大学の先輩や会社の同僚として。

そうすれば、坂下と私は本当に良い友達になれたはずだ。

 

いつか私が別の人とうまくいったら。

あるいは坂下が結婚してしまったその時は。

私は坂下ときっぱりお別れをしようと思っている。

 

その後はきっと大金持ちになって、再び坂下の前に現れよう。

 

恋人でも友達でも浮気相手でもない。

ただ一人の筆頭株主としてな。