東大卒、会社経営者、33歳。
名前は坂下(仮)。
タワマンやシャンパンの写真を並べた胡散臭い「経営者」ではなく、見るからに真面目そうなジャケット姿の本人と、何かの舞台写真が目に留まった。
<舞台関係の会社を経営しています。仕事ばかりの生活なので、違う世界の人とお話できたら。>
大学で演劇をかじっていた私は坂下の仕事内容が気になり、しばらくチャットでやり取りをした。
想像通り坂下の文章は真面目だったが、返信が1週間空くこともザラだった。
この手のレス遅すぎタイプは、会うに至らないことが多い。
しかし2ヶ月ほど経ったある日。
<直接お話してみたいです。お会いしませんか?>
ようやく坂下からこの一言を引き出すことに成功した。
土日も関係なく働いているという坂下の都合に合わせ、平日の夜、新宿の遅くまで空いているカフェバーで待ち合わせた。
約束の時間に少し遅れて、スーツで現れた坂下。
身長はそこそこ高いが、肩幅が狭く痩せていて、顔が小さい。
俳優・鈴鹿央士がダークサイドに堕ち続けたまま33歳になったら、多分こんな感じ。
(褒めてます)
軽食とお酒を頼み、起業に至るまでの経緯を尋ねると、坂下は信じられない理由を述べた。
「朝起きるのがつらくて」
「…え?」
「最初は会社員やってたんですけど、ロングスリーパーだから、毎朝9時に会社に行くというのが無理で」
「1日何時間くらい寝るの?」
「12時間。理想は15」
今どき小学生でもそんなに寝ないんじゃなかろうか。
「例えば今日はどういうスケジュール?」
「9時に起きて朝ご飯食べて、そのあともう1回寝るじゃん?」
「寝ないよ普通」
「いや、寝るでしょ。それでもう一回起きて、午後は少し仕事してここに来た。いつもは夜中まで働いてるけど、プロジェクトの合間の時期だから今日はもう大丈夫」
出た、奇人。
私は俄然、坂下に興味を惹かれた。
それから舞台の話や私の仕事の話などをして、わりと盛り上がったので2軒目に行くことになった。
中性的な見た目と裏腹に、ウイスキーをロックで飲み続ける坂下。
この人はどんな女性を好きになるのだろう。
純粋に興味が芽生え、聞いてみた。
「彼女はいつからいないの?」
「いつから…というとね、」
嫌な予感がした。
「実は、いるんですよね。ごめんなさい。ここにきて『は?』って感じですよね。そういう目的じゃないんです」
Tinderは「恋人探し」を銘打ったアプリではない。
それでも、ほとんどのユーザーが異性しか見ていないのは周知の事実である。
いるならいると、事前に言え。それが礼儀だ。
私は率直に聞いた。
「なんでTinderやってるの?」
「彼女とはもう4、5年付き合っていて、ドキドキするような関係ではないんですよ。仕事と彼女だけの世界は狭いなって思って、少し視野を広げたくなりました」
「Tinderやってること、彼女に言ってるの?」
「…言ってないです」
「なら、それは浮気だよ」
坂下は少し考えて言った。
「彼女はこういうもの、彼氏はこういうもの、友達はこういうものとか、そういう枠組みに囚われたくないんです」
その瞬間、私は決めた。
絶対にこいつを論破する。
「枠組みに囚われたくないとか言う人ってさ、誰よりも囚われてるよね」
論破は、その瞬間は気持ち良くても、長い目で見ればたいてい損をする。
そんなことは分かっているが、どうでもよかった。
沈黙する坂下に、私は追い討ちをかけた。
「それとも、フリーセックスを肯定したい人?」
「いや、そういう欲求は本当にない」
「彼女探してません、友達探しですって言いながらさ、女性しか表示してないんでしょ?」
「それは…うん、そう」
「どうして?」
「女の人に会わないってなったら、半分の可能性を取りこぼすことになるじゃん?それはすごく勿体無いことだと思う」
「じゃあ男性を表示しないことで、半分の可能性を取りこぼしてるんだね」
再び沈黙する坂下。
「…勝った笑」
私が勝利を宣言すると、坂下は静かに言った。
「参りました。闘う相手を間違えた」
剥き出しの本音をぶつけたせいだろうか。
私と坂下の間には、古くからの戦友のような変な空気が生まれていた。
別れ際、坂下は私にこう言った。
「僕、海苔子さんとは本当に良い友達になれそうな気がします」
返しに困っていると坂下は続けた。
「年下なのに最初からずっとタメ口なのとか意味がわからないんだけどさ。でもすごく良い友達になれそうだと思っています。だからもし嫌じゃなければ、また会ってほしい」
そしてLINEを交換した。
坂下の登録名は漢字フルネームで、アイコンは初期設定のままだった。
「LINEのアイコン設定しない人、無駄に思想強そうで苦手だわ」
私が半笑いで言うと、坂下は衝撃的な一言を放った。
「先月までガラケーだったんですよ」
「…!?」
「LINE始めたばかりなので許してください」
Tinderはタブレット端末で使用していたらしい。
やっぱり変な人だった。
それから数日後。
坂下からLINEがきた。
<XXX(私が住む街)でごはん行きましょう>
場所をこちらに寄せたのは、彼女に見つからないためのリスクヘッジか。
あるいは、私に対する申し訳なさからだろうか。
メッセージはこう続いていた。
<その時、何か本を貸してください>
本を借りれば、返すためにまた会わなくてはならない。
2回会うことを前提としたこの一文を見て、私の心は情けないくらい踊った。
坂下のような浮世離れした天才に、もともと私は弱い。
やめとけ、やめとけ。
いま既にそんな感じなら、友達になどなれはしない。
後で苦しむのは自分だ。
ひとりで葛藤した末、私は承諾の返事をした。
坂下に読ませたい本があったからだ。
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