Tinderには「経営者」を名乗る人物がゴロゴロいるが、タワマンや肉やシャンパンや高級車の写真を並べた彼らの多くは、人としてひどく薄っぺらい。
最初は興味本位でメッセージをやりとりしていたが、あまりにもつまらないのでLIKEをしないようになった。
そんな中、唯一会った「経営者」がいた。
彼は顔の見えない私に対して、有料の「メッセージ付きいいね」を使ってわざわざ好きな本について語ってきたのだった。
出身は東京大学、31歳。
丁寧なメッセージの雰囲気からして、どう考えても真面目で、超優秀な変わり者。
これは興味深い。
平日の昼間、私の在宅勤務の合間に喫茶店で会うことになった。
先に入ってコーヒーを飲んでいた彼は、ジーンズに黒Tという服装でさながらスティーブ・ジョブズだった。
片手には読みかけの本。
私がメッセージのやり取りの中でおすすめしたものだ。
だけど、その行動に一ミリの下心もないことが、彼が纏うオーラのようなもので瞬時に分かってしまった。
この人はきっと、恋愛に興味がない。
見た目はいたって普通で、何か特徴があるわけではないのに、どうしてか分かってしまうのが不思議だった。
話を聞くと、東大で化学の研究をしていた時に立ち上げた会社を売却し、そのお金でここ数年はふらふらしていたが、現在は次の事業に向けて動いているところらしい。
「次の事業はどういうの?」
私が尋ねると、文系の人間にも分かるように丁寧に説明してくれて、とても興味深いものだった。
1時間ほど話してそろそろ出ようかという雰囲気になり、
「ここは僕が払いますね」と伝票を持ってレジに向かうジョブズ。
聞くなら今しかねぇ!!!!!!
ジョブズの背中に向かって、さらりと聞いてみた。
「ちなみに、会社はいくらで売却したの?」
ジョブズがちらりとこちらを振り返る。
「サラリーマンの生涯年収の倍くらいかな」
「今日はお昼に牛丼を食べた」と同じくらいのトーンで、淡々と言った。
家に帰って「サラリーマン 生涯年収」でググったところ、だいたい2億5千万〜3億円とのこと。
彼は20代で推定5億円を手にしていたことになる。
それでも会社を売却したことについて、後悔が残っているという。
「もっと大きくしてあげたかったけど、自分の限界はここだな、と感じて売却の道を選んだ。売った後は悲しくて毎日泣いてた」
売却なんて大勝利の証じゃねぇか、と思っていた私には理解し難い感情だった。
「自分の子供を売り払ったような感じ?」
「あぁ、本当にそれに近いかも」
ジョブズの漢字のフルネームはわからなかったが、後日いくつかのキーワードで検索すると、すぐにそれらしき買収の記事がヒットした。
誰もが知る大企業のトップと握手する、スーツを着た彼の姿。
雲の上の人だった。
こういう人でも、ふさわしい女性と出会ったなら、恋愛をするのだろうか。
惚れたわけではないにも関わらず、自分がその対象ではないということが、少しだけ悔しかった。