東大院卒、数学者、29歳、名前は伊藤(仮)。
自宅と思しき写真に写る本棚は、いかにも数学者な小難しいラインナップ。
顔写真はかなり引きだが、オズワルド伊藤を彷彿とさせる髭メガネだった。
チャットで職業を聞かれ編集者と答えると、URLが送られてきた。
<これ、自分が書いた短編SF小説です。読んで批評してくれませんか?>
お、おぉぅ…
軽く引きつつ、冒頭だけでも読むかと思いリンクを開くと、本編の前に著者プロフィールがあり、最後の一文に目が留まった。
「一児の父。」
堂々としてんな、おい。
私は普通に質問した。
<何で一児の父がTinderやってんの?>
<プロフィール変えるの忘れてました。笑 なぜTinderをやっているかと言うと、バツイチだからです>
私はとりあえず伊藤の小説に目を通した。
千文字ほどの超短編であまり面白くはなかったが、「小説書いてる数学者」というルイス・キャロル的な人物像に興味を惹かれ、喫茶店で会ってみることにした。
実物の伊藤は、意外と背が高くガタイが良かった。
「どうも、伊藤です。小説読んでくれました?」
彼は感想ではなく批評を欲しがっていたため、私は正直に「こうした方がいいんじゃない」というニュアンスで話をした。
すると伊藤は言った。
「あーやはり。この間Chat GPTに聞いたら、全く同じこと言われました」
「え、Chat GPTってそんなことできるの?」
伊藤が見せてくれたスマホの画面には、ものすごく的確なアドバイスをするChat GPTの返信がずらりと並んでいた。
こえぇぇぇぇぇぇ
もう編集者いらないじゃん、これ。
私は内心ビビりながら、伊藤が小説を書き始めた経緯を尋ねてみた。
「本業が研究者なんで、ずっと何かしら書いてはいるんです。でも、論文は全力疾走で疲れてしまうから、マラソンっぽく書くことがしたいなと思って趣味で書き始めた感じですね」
ざっとこんな感じのことを、伊藤は回りくどく時間をかけて説明した。
私は話を聞きながら、先日の高橋一生を思い出してある仮説を立てていた。
研究者全員、話下手説。
いま大学に入り直すなら、「なぜ研究者は話が下手なのか?」について研究したい。
伊藤の専門分野について聞きたいことはあったが、下手な話が続くことは目に見えていたので、私は話題を変えた。
「なんで離婚したの?」
伊藤は「ストレートに聞きますね」と苦笑し、自身の結婚生活について語った。
26歳のとき、仕事関係のイベントで40歳の女性に出会い、一目惚れ。
結婚してすぐに子供が産まれたが、ポスドクの自分より彼女の方が稼ぎがあったため、専業主夫になった。
それによって彼女が全ての主導権を握るようになってしまい、まだ若く自我が強かった彼と言い争いが絶えなくなり、別れたという。
「多分、僕が何もかも諦めて、彼女を支える人生に舵を切れたらよかったんですけどね」
私は薄々察していた。
伊藤はプライドが高い。
そんな人生を、選べるわけがない。
「あ、ちなみにまだ離婚調停中なので、本当の名前はXXです。離婚したら伊藤に戻ります」
離婚調停中にTinderやる男。
クズなのだろうか?
「彼女と揉めてるの?」
「はい、財産分与の件で。ただ僕、来月から正社員として働くんですけど、いまは本当にお金がなくて。向こうに弁護士たてられたら経済的に厳しいので、のらりくらりと引き延ばしてます」
クズなのだろう。多分。
「その状況でTinderやってて大丈夫?てか、もう結婚は懲り懲りってならないんだ?」
「離婚が成立してないので、逆に友達には会いにくいんですよね。結婚は、できればまたしたいです。今度は専業主婦になりたいって言うような子がいい」
…は?
金のないお前に専業主婦を望む資格はねぇよ、と思いつつ理由を尋ねると、彼はこう答えた。
「家族は会社と一緒で、意思決定者は一人に決めた方がいいんですよ」
「え、それを言うなら共同経営でしょ。一人が全部決めるなんて関係性は奴隷だよ」
「もちろん意見は聞きますよ。でも、決定権は一人に与えるべきだと思います」
私はフェミニストでも何でもないが、伊藤の極論にイライラした。
こいつは近い将来モラハラ男、いや、オズ悪ド伊藤に成り果てるに違いない。
私がさらりと受け流して「そろそろ出ようか」と言うと、伊藤はリュックから薄い冊子を取り出した。
「これ、差し上げます」
伊藤が書いた、数学の論文集だった。
い…いらん…
てか多分、読んでも理解できん…
私は引きつった顔で礼を言って受け取り、自分のコーヒー代を払って外に出た。
LINEは交換しなかったが、夜、伊藤からTinderでメッセージが届いた。
<今日はありがとうございました。小説の話もできて、とても楽しかったです。新作書けたら連絡するので、今後ともよろしくお願いします>
…。
…。
一旦やめさせてもらいます。