代官山の川谷絵音(後編)

前編はこちら↓

noriko-uwotani.hatenablog.com

 

次の土曜日の夜、代官山で食事をした後、私は絵音の家に招かれた。

 

高級感あふれるエントランスを抜けてエレベーターに乗り込み、5階で降りる。

家のドアを開けると、広々とした空間にオシャレな家具がきちんと配置され、テーブルの隅にはセンスよくドライフラワーが飾ってあった。

 

インテリア雑誌から飛び出してきたような部屋だ。

というかここ、家賃いくらなんだろう。

 

「すごいとこに住んでるね」

 

私が素直な感想を口にすると、

 

「いやいや、事務所として計上してるから全然」

 

と絵音は謙遜した。

 

安心材料を与えたかったのだろう、絵音は頼んでもないのに、過去の作品やポートフォリオをクローゼットから出して見せてくれた。

 

私はそれらをじっくり眺めて思った。

 

彼はきっと、将来安泰だ!

学歴がなくても、これだけの実績があればこの先も大丈夫だろう。

 

そうして私は、絵音と付き合うことに決めた。

 

唯一の問題は、私の親が間違いなく反対するだろうということだった。

大卒ではない、不安定なフリーランス

おまけに絵音は金遣いが荒く、しっかり貯金をしているタイプではなさそうに見えた。

 

だが、しかし。

そんな心配も意味を成さないほどの嵐が、3月に訪れた。

 

毎年3月、決算期を迎えた企業が今年度の予算を使い切ろうとするために、フリーランスの彼の仕事が激増するのである。

 

3月中は1日も外で会うことは叶わず、一度だけ差し入れを持って家を訪ねたが、徹夜続きの絵音は目の下にクマを作り、気の毒なほど疲れ果てていた。

 

「誰にでもできる仕事ばっかりだよ」

 

いつになく弱音を吐く絵音。

鋭いセンスや感性はどこかへ消えてしまい、言われた仕事を闇雲にこなすだけのマシーンと化していた。

 

そんな彼を励まし、差し入れを置いて私は退散したが、4月になっても状況は良くなるどころか、むしろ悪化した。

 

ホワイトデーのお返しや私の誕生日祝いは延期を繰り返し、送ったLINEが2週間後にたった1行で返ってきた瞬間、心が折れてしまった。

 

フリーランスの繁忙期が会社員とは桁違いであるということ。

絵音がまだ「仕事を選べる」立場ではないということ。

私は何も知らず、また、それを受け入れるほどの深い愛情を、絵音に向けられなかった。

 

彼もまた、同じだったのだろう。

別れらしい別れも告げないまま、私たちはお互いに連絡を取らなくなった。

いい歳をして情けない終わり方である。

 

楽しかった日々に蓋をして、私はひっそりとTinderを再開した。

 

ゲスを極めているのは、きっと、私の方だ。